智恵子のまち夢クラブ   

高村智恵子生誕130年高村光太郎没後60年記念事業

智恵子講座 2016

高村智恵子に影響を与えた人達パート2

第8回 「高村智恵子を語るつどい」  

とき 12月18日(日)午後一時半  ところ 福島県男女共生センター

午前は「平塚らいてふ」について講座を受けました。

お昼はお弁当頂きその後日曜美術館の智恵子のDVD鑑賞しました。

それも終わり「高村智恵子を語つどい」を行いました。


テーブルをロの形にしてお互い顔の見えるようにして

左巡りで一人三分間のスピーチです。

一番手は大学で澤さんの講座を受けている学生さんでした。

智恵子に興味を持ってくれて嬉しく思いました。

二人目は福島の飯野からでレモン会でこの夢くらぶの活動を知って

参加されたそうで、これも代表はじめ会員の努力家と思いました。

遠足でお城山まで来たのが智恵子と初めて触れた事かも知れない

自宅らからは乳首山がよく見える。と話されました。

三人目は熊谷さん、美術館行く機会が増えた。

パリまで行けて美について考えるようになった。

あこがれのパリは匂い塵が多かった。

智恵子は紙絵を光太郎に見せるため必死に作ったから

良く出来たと思う。私達の活動も末永くやって行きたい。

四人目はミチ子さん、二本松に住んで50年だが

智恵子については40年なってから、だが皆様と勉強する中で

もっともっと今日の平塚らいてふについてもユーモアある講座に

もっと知りたいと思った。今年は薬師岳の朗読会が記憶に残った。

5人目林さんは、二本松生まれだから智恵子については興味があった。

映画も見て一部覚えている。今年は東京の研修、紙芝居やら

宮川さんの講座で同じような詩が三編ある等また

当時N女史への詩など開かれた現代では勇気あると

思ったしギター演奏での朗読は胸に迫った。

次の星さんはこの会で8年過ぎた。

お陰様で智恵子、光太郎について良く知る事ができた。

特に九十九里の事、病になっても励ます二人の姿に励まされる。

星さんの奥様は東京で染井霊園、二人の住居見せて貰え有り難かった。

市川房枝のの名前に選挙思い出した。澤さんの講座に緊張するかと

思ったがユーモアあり、楽しかった。

次の大石さんは、智恵子の場合は光太郎の理解と常に愛する人を自然と

選ぶのかと思いついた。智恵子抄については大人についてからですが

中学の時は道程を学んだ。

道程は120行をさらに削って削って現在の形、そこに谺が宿ること

知る事ができた。

斉藤恭子さんは

智恵子について学ぼうと思ったのはこの二本松に住んで

合併して安達町と一緒になった。

そこで観光客に智恵子の事聴かれても苦しい思いをした。

新聞記事に智恵子講座をしり入会した。

そこで会員の熱心さについて行こうと思った。

大内さんは歴史研究会で研鑽つんでいた。

智恵子杜公園ではよく遊んでいた。

斉藤さんは、ことし光太郎智恵子の研修会に参加した。

とても皆さんの勉強のしている中に和気藹々楽しそうであった。

地元で生まれ智恵子さんの歌は好きで良く歌っていた。

勉強する事でより深くお二方の生き様を知り、夫婦でいても相手を思うこと

芯から出来るようにこれから生活に活かしたい。

渡辺さん、智恵子の生家でお琴の演奏した。それから講座で

智恵子に始まり智恵子に終わるような感じで今回の講座も良かった。

これからも参加したい。

私は最初自己紹介。当初アマチュア無線していた。

ホームページの名前は当初はコールサインだった。

やがて「智恵子の町から」にした。

この町を紹介するのに安達太良山を話すと直ぐにロケーションを理解して貰えた。

そして東京研修でお二方の住んでいる街、ゼームス坂など歩き

東京は坂の多い街と思った。当時を偲ぶのに良く理解できた。

もう一つは薬師岳の朗読会では、皆様かなり練習して発表している。

それに控え私は単なる朗読に終わって仕舞った。

木村さん、資料詳しく有り難い。

今年心に残ったのは文集には書いたので読んで貰いたい。

薬師岳の朗読では寅一さんが一番上手いと思った。

ゆっくり大きな声で読んだのが良かった。

東京研修では初代会長さんが迎えてくれて嬉しかった。

亡くなられたのは残念、あの姿が偲ばれる。

日高さん、智恵子と光太郎は記念すべき年であった。

素晴らしい年であったが代表は計画をどうやって作るのか

体調悪くして一年間休んだが健康管理に気をつけ今年の活動に備えた。

お陰様で研修旅行の国立博物館をゆっくり見学できて良かった。

今日の講座も良かった。

ここで日高さんに「智恵子抄」のリクエスト

報告」暗唱。拍手。

次は熊谷寅一さん

油井小学校卒業した。智恵子さんのお父さんは働いて働いて造り酒屋になった。

立派な商家になって貴族院議員になって活躍した。

智恵子は家の前を通り通っていたと親父は話していた。

毎月一回は頼まれて自宅で理髪していた。その時智恵子は二回で勉強している姿

を時々見ていた。御礼に酒粕など貰ってきた聴いていた。

東京へ奉公へ行って修業した。

やがて軍隊へ行ったが智恵子さんの努力を今でも

良き先輩、姿と思っている。地元の神社に智恵子の書いた直筆の

石碑がある。それに力を頂き今後も生きる。

代表からは智恵子と光太郎の巡り会いを仮定としても

考える。出会うべくして出会ったと思う。

光太郎は留学して帰ったが当時は受け容れる土壌がなかった。

芸術家としての心の鉢を満たしたのが智恵子、救われ荒れた心が

素直になり芸術に目覚めたと思う。

智恵子の統合失調症も若い時に蓄積した物が紙絵に現れたと思う。

本当に価値ある物に値段は無いと思う。

二人の生き様に多くの事を学び自分の生活に役立てたい。

そして皆様も自分の暮らしに二人に学んだ事を活かして貰いたい。

それがこの智恵子のまち夢くらぶの願いでもある。

最後に講師から神戸に住んでいる。そこに光雲の作った楠正茂像がある。

光太郎は海外留学して帰国したがカルチャーショック受け

女遊びをした。その相手がモナリザでその相手にも振られた

その頃道程を作ったがピュアな智恵子に救われた。

だから道程の後半は智恵子を歌ってる。

やがて一緒になったけれど智恵子は光太郎に家の倒産など言えなかった。

家柄の違いもあったのだろう。光太郎は智恵子は飾りを捨てると美しいと言っている

そのイメージも壊したくなかったのだろう等々

もう少し光太郎も智恵子を思いやっても良かったのでは?

とありました。

この後閉校式を行いました。

智恵子講座通算40回記念して特別賞は日高計子さん

新人受講者として大内さん

同じく斉藤さん 津田さん

渡辺さんを智恵子のまち夢くらぶ賞として表彰しました

そして来年度の活動計画案内して

無事に閉校式を終了しました。