智恵子のまち夢クラブ   

みんなで語る「智恵子抄」しゃべり場 

市民交流センター二階 10月13日 午後二時

台風19号が接近している日でしたが

予定時間より早く来賓の方々も揃いましたので始めました。

司会は会員の菅野ミチ子さんです。

尚入り口付近に夢くらぶの歴代の事業のポスター数枚展示しました。

   

光太郎の本

智恵子抄の本など飾りました。

開会セレモニーでは主催者挨拶を代表の熊谷

来賓祝辞を市長代理の二本松教育委員長、小泉さんより

高村光太郎連翹忌運営委員長 小山弘明様から頂きました。

その後来賓紹介で

先ほどの小泉さん、小山さん、二本松観光協会長 安斎文彦様

二本松未来創造ネットワーク事務局長 高宮光敏様

二本松青年会議所理事長 渡辺智彦様

二本松市立安達中学校 二年生の皆さん

それぞれ紹介されました。セレモニーはこれで終わり

次の1部 私のなかの「智恵子抄」

副題を~智恵子や光太郎への想いを語る~と言うことで

進行役に代表に座って貰い

それぞれ語り合いました。

代表より「智恵子抄」は奥が深く、読み直したり、

年齢により受け取る印象が

時にして変わる。

時々読み直しても感動は途切れることは無い。

と話され

初めに3分以内で若い順と言うことで

中学生から発言されました。

その中学生Aさんは、小三の時初めて二人を知ることが出来た。

単に有名人だと思っていたが

教科書に詩があり更に智恵子は二本松出身と言うことで

小六の時二本松探索に参加して更に「ほんとの空」発見し

奥深く知ることができた。

Bさんは生家の前を通り智恵子と同じ小学校へ通った

東京には空がないと言う智恵子の言葉に疑問を持ったけれど

その後ふるさとを愛する言葉と思った。アメリカへ旅をして

信念に生きる智恵子にならい、意見の言える人になりたい。

Cさんは智恵子は真っ直ぐに生きる光太郎に惚れたのだと思う

智恵子大橋の近くに住んでいるが奇麗な安達太良山、阿武隈川が残る

このふるさとを大事にこれからも守って行きたい。などありました。

小泉教育長からは改めて読み直して花巻へ一度は行ってみたい。

そして光太郎側からも見る必要性、各地の顕彰活動とも

ネットワーク化する必用があるのでは無いかとありました。

この後台風対策の為中座されました。

青年会議所の渡辺さんも読み直して特に「人に」が心に沁みた。

ほんとの空は大事な言葉二本松市民として大事に受け継いで行きたい

とありました。

次に未来創造ネットワーク事務局長高宮さん

から13年前に二本松へ戻ってきた

今は街作りする中で誇りとする物はなにか求めてきた。

本との空は原発以後日本全国に知れ渡ってはいるが

智恵子抄はその時々で印象が違う。素晴らしいと思う。

将来へ大事に伝えて行きたい。

観光協会長の安斎文彦さんは

生家のすぐ隣りに住んでいた。小学校のPTA会長などもしていて

智恵子の話を子供達にもしたが

今思うのは、智恵子が安達で暮らしていた頃は

テニスにしろ、自転車にしろみな肯定されていて

自信に満ちていたのだろう

やがて光太郎と出会い尊敬し究極まで

高めた愛の形は崇拝と言う所まで行ったのではないか

そして芸術家同士の会話の中に

想像ではあるが否定的な言葉があったのではないか

それが心に刺さりやがて夫だけを

支える生活になったのではないか

ほんとの空は自分を否定する東京への

反発ではないか

死語発表された梅酒に愛の深さを感じる。

二人の結婚100年に人を大事にする事大事さを思う。

会員の林さんは15歳まで二本松で過ごした。

智恵子をもっと知りたいと会員になった。

紙絵が好きであるとき展覧会があったが

精神病んでから智恵子が光太郎のために

残した2000点程の作品は智恵子の絵画などの才能がここに

出たものだと思う。

安達太良山を阿武隈川も今でも眺めているが

あどけない話しなど好きで、身近に感じる

光太郎との出会いでそれがこのような詩になり

作品に繋がり日本中に知られるようになったの奇跡的な

素晴らしい出来事だと思った。

星さんは二人の自然の姿、素朴な言葉に惹かれる。

言っていることが自然の力を出している。

東京には空が無い、この安達太良山にホントの空がある、感動する。

光太郎の道程の詩も自然の事だし、宮沢賢治のアメニモマケズも

自然の力強さをかんじる

これを基本に今後も勉強したい。

星さんの奥様は上高地で

智恵子が光太郎を訪ね歩いたことに感動した。

河童橋付近が好きで三回程通ったが、あの山道を

よく歩いたと言うが愛の結びつく

力強さに感動した。これは私も同じだった。

大内さんは春の、ゆかりの地のウオーキングで

毎年感ずる事は智恵子公園など長い時代の流れで

樹木が伸びて景観が悪くなっている、何とかならないかと思う。

山にも毎年登るが本との青空あり、澄んだ空気など永遠に続き

皆さんにも味わって欲しい

原発事故の事もあるが

空気などの奇麗な良い環境は守って残して欲しい。

夢くらぶの活動もイベントも

会員に会えるのも楽しいし会話も楽しいので

今後も続けて欲しい。

富樫さんは、舅から親が智恵子と遊んでいたと聞いた

活発で頭の良い元気な子だと言われていた。

智恵子の事を勉強したくて参加した。

花巻研修にも参加して、光太郎の智恵子への

愛の深さをしった。

若い頃ワンダーフォーゲル部に参加していて

穂高へ登っていたこともある。

智恵子も河童橋付近歩いた事もこの会で

知ることが出来た。

二本松に生まれなのでこれからも勉強して

孫もいるので、しっかりと伝えたいと思う。

私からは岩手から50年前にこの地へ来た。

当時コロンビアロースの智恵子抄が大ヒットしていて

毎朝駅から流れる歌を聴いていた。

インターネット時代にはいち早くホームページを作り

楽しんでいたがもう一つの趣味の

アマチュア無線で全国の仲間と交信する中で

智恵子の生まれた町からと言うと、相手がすぐにこの地を

わかってくれたことから

ホームページのタイトルを「智恵子の町から」にして

現在にいたっている。

熊谷さつきさんからは長年参加しているが

智恵子抄のテレビドラマなど心に残っている

とくに同じ芸術家としてなお生活を支える

女性の立場をいつも考えてしまう。

どうしても一歩引いていた姿などもっと勉強したい。

茅原さんは福島から40年程前にここへ来た。

光太郎の詩は教科書にも載っていた。

夢くらぶの活動は素晴らしいので

皆さんにももっと参加して欲しい。

童話が大好きで「ごんぎつね」作者新美南吉の

古里訪ねた。

彼岸花など土手一面に何キロも続き素晴らしかった。

記念館も訪ねたがまだ

作者が生きているような活発な活動があった。

同じような記念館、ここでもそう願いたい。

森山さんからは、50代になってから

二人の生き方に感動した。

両親は近くの馬出に住んでいた。

夏休みに祖母の家に遊びに来て長沼家の前を通ると時

決して中を見てはいけないと言われた。

ここに来てからも16年

今でもそれを感じることが出来る。

この悪い雰囲気を払拭しない限り

記念館など全国に発信出来ないのではないか

この雰囲気を何とか出来ないのだろうか。

一般参加の森山さんは静岡出身で

光太郎の詩は教科書にのっていて読んだことはある。

こちらに来て色々活動する中で

智恵子抄読んでレモンに感じる物があった。

レモン手に何を智恵子は感じていたか興味がある。

菅野チエ子さんはこの地に住んで40年になる。

お城山を愛犬と散歩していると観光客からよく質問され

応えられなかった。

本や夢くらぶで勉強する事が出来た。

会員も当初より増えて嬉しいが

他の文学など訪ねると

ここの記念館はまだまだ活かされていない

行政も巻き込んで活発化出来ないだろうか。

連行基運営委員長の小山さんは

人によく光太郎の何処に惚れたか聞かれる。

一般的には近代的な詩や彫刻を作る偉大な人ではあるが

それよりもその生き様に惚れる。

多くの文学者はあの戦争に協力させられて

戦後もたいした反省も無く以前と同じ活動しているが

光太郎だけは花巻へ引っ越し

7年間も山小屋で蟄居生活した。

彫刻家でありながらそれもせず

智恵子への愛の詩など作り続けた

真に戦争を反省したのはこの人だけでそこに惚れた。

智恵子も等身大の姿で捉える必用があるのかもしれない。

智恵子は社会的にはほとんど何も残していない

だが挫折の中でも作品を作り付けた紙絵や

光太郎の詩の中で生きる智恵子など

等身大の姿をクローズアップしたい。

2部 二本松と智恵子

休憩時間を挟んで

~智恵子生誕の地のこれからを語る~

この回も中学生からの発言で再会しました

全部載せると長くなるのである程度省略します。

中学生の発言まとめると

グランドゴルフやら料理教室を体験した。

触れ合い大切なので地元の料理教室を開いてはどうか。

またこの地へ自然も豊かで歴史もあり伝統もあるので

環境をまもり大事に伝えて行きたいとありました。

他の皆さんからも色々出ました重複する部分もあり

代表の意見にほぼ集約出来る事からそれを

最初に書きます。

その一つに智恵子生家利用を柔軟に活用出来るように願いたい

以前申し込んだか展示物と断られた。方法ややり方は色々あるだろう。

記念館独自の又は共催とか、休館日とか夜間とか

そこでコンサートやら朗読会などやって見たい。

二つ目に関係する職員全員がこの地をたずねて来る人に

智恵子光太郎の事も含めて説明する力身につけて欲しい。

三つ目は智恵子ゆかりの地のポスター二万部作成して頂いたが

記念碑前に大きな案内図が欲しい。

お隣が民家でもありそれで目隠しがわりもなるのではないか。

四つ目は各地で光太郎の顕彰活動しているが

純愛の旅と言うことでJRやら観光会社などへ

その地を廻るツアーの旅の企画提案働きかけて見たい。

五つ目はコンサートやら朗読会開いて小学生、中学生に聞いて貰いたく

無料招待したが空振りに終わった。教育委員会で文化事業として

出来ないだろうか。

六つ目は智恵子についての副読本を外の人のを利用しているが

市として二本松の先人偉人について学べる副読本

朝河寛一、岩井田昨非、智恵子など

出来ないだろうか

七つ目はモンデンモモさんは智恵子抄に

曲をつけて歌う日本の第一人者だが

テレビに出ることが少ないので一般に知られていない。

NHKへ市全体で要望できないだろうか

八つ目は

観光客迎えての対応は訪問客を知人、親戚と思い対応出来るよう

市民総ガイド運動など、おもてなしの心市民全体が持てるように

しては、等ありました

これを受ける形で

観光協会長の安斎さんからは

代表の意見についてはまったく異論無しだが

全部は無理としても一つ二つは協力したい

また行政に全部ぶつけても腰が引けるだろ。

だが来年はデスティネーションキャンペーンの本番の年でもある

市としても観光客誘致に積極的に取り組む。

今年の山登りは60回の記念登山で例年より多くの人がきた

菊人形もリニューアルして60回

展示方法も過去の歴史に学ぶ形になっている

さらに二本松を知ろうと三回の歴史講座もやっている。

ザクザクの料理も応援したい

自分自身も智恵子光太郎の事を知りたいし全国の皆様にも

知って欲しいので一つひとつ応援したい。

皆様にも他の行事に参加して心を開き

持っている情熱を

他の人に訴えて欲しいとありました。

その前には

高村光太郎連翹忌運営委員長 小山さんからは

行政に頼るだけでは運動は尻すぼみになる

運動には民間のボランテアなどの力大きくが働く

十和田では倒産した会社の有志が会社を作り、市が施設を買い上げ

「十和田湖観光交流センターぷらっと」がオープンした。

その一部に光太郎の資料展示などして説明文を書いた。

観光ボランテア等の力が行政を動かす原動力になる。

地元の活動だけではやがてマンネリ化するから

来て欲しければこちらから出かけ働きかける事も大事

県内には光太郎と親交のあった

草野心平記念館が川内村にあるから

手始めにそこから交流深め

やがては全国的ネットワークに繋げてはどうか

日本人は一般的にシャイで

こちらから宣伝が下手、もっと外に出る必用がある。

等貴重な意見聞くことが出来ました。

私からは「和紙の里俳句大会」に関わっていることから

中村草田男の俳句を紹介しました。

草田男は戦争中下川崎に疎開しておりました。

そこで毎年案内文に使われる文章が

草田男句碑の顕彰と、智恵子の里をより豊かな詩情として・・

案内文に使っていること

その草田男が読んだ智恵子の俳句

「亡き婦人智恵子の色絵冬爛漫」 詩集 来し方行方 より

「音声冴ゆ光太郎だた進むのみ」 句集 万緑 より

を紹介しました。

このように皆様思いの丈を

他の人々に公式に発表したのは初めてでは無いでしょうか。

来賓の方々、中学生、会員会友、一般の人が

初めてテーブルに付きましたが、いつか又多くの人に参加して頂き

なお一層、智恵子光太郎の世界を学びたいと思いました。