智恵子のまち夢クラブ 

智恵子光太郎ゆかりの

花巻、十和田研修

2012年7月15日(日)16日(祝)二日間の日程で

今回の研修が行われました

早朝7時智恵子の生家記念駐車場集合で24名

最高齢89才、熊谷会長のお父さん交え出発しました

途中郡山から参加のメンバー、福島から参加のメンバー加え

飯坂インターから高速道を花巻めざし北進しました

車中参加メンバーの自己紹介兼ねた参加の動機など

語り合い予定通り高村山荘には11時頃到着しました

後ほど多くの参加メンバーから述べられたことも

含め前もっていつも事前調査され作られた代表の計画に

いつも狂いはありません

二日間ともかなりの雨にたたられ、それでも挫けることもなく

計画通りほぼ出来たことは代表始め奥様の怠りのない

力の賜だと思いました。

そこでは現地ボランテアの佐藤さんと平井さんが待っておられました

お二方とも光太郎とは深い関わりの合った方で

佐藤さんのお父さんは山口小学校の校長で

その息子さんです

平井さんは光太郎が乙女の像を造るべく花巻を離れるとき

送別会合ったそうですがその場所を提供された家の

息子さんでお二方とも花巻高村会のメンバーの様です

左端ベストの方が佐藤さんで最後まで

花巻の市内なども案内して頂きました

あいにくの雨にもかかわらず一同大感激です

大変有りがとうございました。

早速の現在の山荘の様子

新緑に囲まれ事前のイメージでは小高い丘にある物と

思いきや山口集落は平地でこの裏から山の斜面に

なっておりました。外観は保護のために建てられたもので

中は硝子張りになっており二重に保護されておりました

 当時の冬景色です

実際の建物は荒壁と障子でその障子に

光太郎自作の日時計です。

真ん中付近に石がぶら下がっておりました

小屋は全体で20坪ほどでその部屋の様子です

実際には筵敷いてあったようで囲炉裏が掘られており

後ろの荒壁に本棚見えます

こちらは厠、雪景色の写真でご覧のように

別棟になっておりこちらも同じように保護されております

光の文字が見えますがくり抜かれております

明かり取りにはこれで充分だったようです

外には三畝の畑が目の前です

ここで自活の野菜作ったようで、当時としては珍しい野菜もあったそうです

もちろんそれまで、いやそれまでも地元の人達はなにかと

持ち寄ってくれたと本人も書いております

言葉はどうしたかと思ったら雰囲気で身振り手振りで

又は手に持った物をみて解るそうです

この山荘は近くの鉱山で使われていた物を解体し

部落の若いご婦人なども参加され

その柱を一本一本担ぎ運んだそうです

山荘に住むようになってからも山口小学校にはなにかと招かれ

又光太郎からの寄付も何かとあったそうです

当時分教場から小学校になったようです

もちろん自ら授業もされたそうです

招かれて学芸会にも参加されたとか、あの大きな身体で

今ならビデオ有りますが愉快な光太郎見る思いが致します

これもお二方のボランテアの方に頂いた資料等で知ることが出来ました

お昼は近くの公民館でお弁当ひろげ交流を図りました

立派なお弁当でこれも大変美味しく頂きました

その後光太郎がなにかとお世話になった浄土宗松庵寺へ向かいました

松庵寺と日本語の詩碑の脇に英文の詩碑がありました

現住職が作られたそうで自身英語の教師だったこと明かして頂きました

光太郎はここで

毎年10月5日智恵子の法事法要を行っていたそうです

この地も8月10日には爆撃に遭い全て消失したそうですが

松庵寺の詩の通りわずか二丈、最初はそこからの復興で

いまは立派なお寺になっておりました

その後宮座賢治生家跡黒い門のある家

普通の民家だとのことでした。

それから賢治の「アメニモマケズ」賢治の碑第一号で

高さ3Mで碑文は高村光太郎の毛筆で

墨書したものをだそうです。これは昭和11年出来たそうですが

その脇に追刻の彫り込みありその説明に改めて光太郎の大きさに

感嘆しました。つまり詩の一部に間違いありそれを訂正したそうです。

これもボランテアの方から頂いた資料に詳細な説明あり

大変納得しました。

なお実際の碑文は長い詩の途中から掘られておりました

野原ノ林の陰ノ部分からでした。

この詩碑の近くに桜地人館がありそこに廻ればこの事も

光太郎の山荘の部屋やら

花巻ゆかりの芸術家やゆかりの人も解ります(有料です)

この後は宮座賢治記念館へ向かいますがボランテアのお二人にはここまで

案内して頂きました有り難うございました。(一番上に戻る)

さていよいよ私にとっては念願の宮座賢治記念館

同郷として石川啄木記念館は何度か廻りましたがこちらはいつかいつかで

ここまで来てしまいました。完全リタイヤして毎日が日曜に成り

夢くらぶに入り智恵子と光太郎にみせられてはおりましたが

賢治も忘れることは出来ません。科学者にして天文学者、農学博士にして童話作家

その才能はユニークで詩を読んでも鉱石やダイヤモンド散りばめられても

実物ももちろん知らず意味不明の所もあり

その手がかりを少しでも知ることが出来れば幸いと思いました

入り口に「よだかの星」、夜鷹が飛べば岩さえ切り裂き

星になる、と言うことでしょうか展示物が多くとても時間が少なく

改めてここだけで一日かけるくらいの気合いが必要と思いました。

信号機の道見つけました。降りしきる雨の先に記念館

再訪を胸に今夜の宿へ向かいました

大沢の湯山水閣、名前からこの頃のホテル想像しましたが

意外にも自炊部が残って居り

お風呂も全体で七箇所

その一つが大沢の湯、露天になっており豊沢川が

下に流れておりました

この対岸に藁葺きの菊水館

があり光太郎も賢治もこちらに泊まったのかも知れません

全体で大沢温泉となっているようです。

この夜は昼見た山荘の感想やら

賢治の詩碑の追刻、十和田湖への裸像への思いなど

夜の更けるのを忘れ語り合いました

参加されたご夫婦の秘話も飛び出し50年ぶりの

思いを熱く語っておりました。(一番上に戻る)

翌16日7時半バスは多和田湖目指して出発

列島全体が梅雨明けもようの中

残る梅雨前線の下へ潜り込むように北上しました

降りしきる雨にバスの後部に雨もれ(エアコンによる結露など)に騒ぎ

途中懐かしの古里を経過して八戸道をさらに進み

道の駅で本場のニンニクを買い、奥入瀬渓流目指します

ほぼ予定時間には昼食会場の奥入瀬渓流ホテルに着き

子の口発13時の遊覧船に乗ることが出来ました

最深部327メートル、双胴船とあって

それほどの揺れもなし、雨は横殴り休み屋に14時着

全員傘で湖水から吹き付ける雨風を防ぎ

裸像へと向かいました

片手では傘が飛ばされるほどで普通の観光なら遠慮したかも知れません

その裸像礎石に傘を持った人が映る

雨に洗われて、日本人らしいがっしりした裸像が向かい合っている

晴れていたなら感想も違うかも知れないが

嵐の中で見るとスマートなモデルではとてもこの場には立てない

冬には猛烈な吹雪もあるだろうし、自然とマッチして

耐えるには日本人らしい体型が似合うと光太郎は思ったのだろうか

二つの像の空間は共に支え合って

幾千年でも立ち尽くせ、つまり智恵子と光太郎の愛も不滅であったと

訴えているように思える

強く叩かれる雨に打たれて綺麗になった裸像

最高齢89才始め痛い腰さすりながらのメンバーにも感動したし

参加者一同、忘れられない旅になったと思いました

夜9時半ピッタリには安達に無事帰着しました。(一番上に戻る)